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3話 ピンクのバラの花束を《1》

Auteur: 砂原雑音
last update Dernière mise à jour: 2025-03-27 07:11:37

季節は春。

通りの向こう側にある桜の木から、風に吹かれたピンクの花びらが舞い散る中、初々しい新入生らしい姿が緩やかな坂を上っていく。

私は未だフリーターのままだけど、そんな季節を案外穏やかに見送ることができ、葉桜に変わったところで急激に気温が上がった。

ツツジの花が色とりどりにあちこちで咲き始める季節、特にカルミアという花が私は好きだった。

小さな蕾が密集して、すべて開くと白いパラソルが開いたようになる。

……可愛いパラソル。こんな白い日傘が欲しいな。

そう思いながら、今日も軽やかにカフェまでの傾斜を歩いた。

「おはようございまあす。あ、マスター手伝います」

「おはようございます。こちらは大丈夫ですから、カフェの方の準備をお願いします」

店に着くと、一瀬さんが花屋スペースの掃き掃除をしてくれていて、近寄った私に目線でテーブル席の方を示した。

私は「はあい」と返事をしてから、荷物をカウンター下の手荷物置き場に押し込みショートエプロンを腰に巻く。

この頃は、以前より少し早めに店に来るようにしている。

でないと、一瀬さんが花屋の方の片付けを全部ひとりでしちゃうから。

掃き掃除なんかはやらせてくれるけど、お花の処分はやっぱり私にはさせないように考えてくれている気がする。

今日も多分、さっきまでお花を刻んでいたんだろう。

だって、私がしていたみたいに、まだ傷みの少ない花を落として作業台に置いてくれているのが見えたから。

「……仕事だから、そんなに気にしないで欲しいのに」

以前よりはずっとお客さんも増えてブーケや切り花も売れ始めたから、処分する数は減ったと思う。

それでも、一瀬さんは自分で処分しようとして、私の手は煩わせまいとする。

どうしても処分する切り花が出るのは、仕方ないことだと思うのに。

私は作業台に置かれた花を手に取って、一瀬さんに振り返った。

「マスター、これで今日はドライフラワー作ってもいいですか?」

いつもは生花のまま飾るのに、と思ったのだろう。

一瀬さんは不思議そうに首を傾げた。

「ドライフラワーですか? 構いませんが……」

「シリカゲルに入れたら、綺麗な色のまま乾燥させることができるんです。それをガラスの器に入れて飾ったら頻繁に入れ替えなくても済むし……」

上手に作る練習にもなるかな、と思って。

ドライフラワーをいれたフラワーボックスとか、例のセットで選べ
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    びくんっ!と背筋が伸びて慌てて振り向いた。見られたくない、咄嗟にそう思ってしまったからきっと私はかなり慌てた顔をしていたと思う。それなのに、厨房とホールとの境目のカウンターで顔を覗かせる一瀬さんは至っていつも通りの無表情で、淡々と動じることなく片山さんを窘めた。「デートのお誘いは仕事の後にしてください」「へぇへぇ」慌ててるのは、私だけ。しかも、助けてもくれない……んですか。そのことが、自分でも驚くくらい、ショックだった。「……綾さん?」私と目が合ってはじめて一瀬さんの無表情が崩れる。代わりに浮かんだ困惑顔に、また一層、胸が痛んだ。私は一体、どんな顔で一瀬さんを見ているんだろう。ただただ、目頭が熱くて。困惑する一瀬さんの顔を見て、唇を噛んだ。一瞬の目線のやりとりを、片山さんに気づかれたのかはわからない。「……了解。デザートプレート二つね」溜息混じりの片山さんの声が酷く不機嫌だった。一瞬だけ握られた手の圧力が強くなる。それでも目を離せない私に、一瀬さんが少し目を伏せて言った。「向日葵。梅雨が長引いたせいで開花が遅れているそうですよ」「は? そうなの?」「ええ。期間中でも少し後の方に行った方が良いでしょうね。咲いてない向日葵見ても仕方ないでしょう」見るからに動揺している私のせいで気まずく澱んでいた空気が、ようやく少し流れ始める。「そりゃそうか……じゃあ、八月入ってからのがいいかな」残念そうな声と一緒に片山さんが立ち上がる。漸く握られた手が解放されて、やっと肩の力が抜けた。「片山さん、ごちそうさまでした」作業台に向かう片山さんにそう言うと、背中を向けたままひらひらと片手を振った。カウンターに戻ってすぐ、一瀬さんがぽつりと私に言った。「見頃になるまでに、お返事したらいいでしょう。嫌なら嫌と言えばいい」私の方をちらりとも見ずにそう言って、カップとソーサーをセッティングする。「はい……すみません」助けてもらったのか、突き放されたのかわからない。だけど、一つだけわかってしまったことがある。向日葵畑がいつ咲くのかよりも一瀬さんにどう思われるかそのことばかり気になって、仕方ない私がいることに気が付いてしまった。【一途なひまわり・前編】END――――――――――――――――――――――――――――――――――

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   4話 一途なひまわり《5》

    「マ、マスターとそんなんなるわけないでしょ。マスターからしたら私なんてお子様にしか……」「うん、それもあるし」自分で『お子様』って言ったのに、全く否定してくれないお姉ちゃんに結構ダメージは大きかった。どうせ私は子供っぽいですよ。……多分、世間一般の同年齢の子達よりも、私はこういったことに疎いのだと思う。もっとちゃんと、真剣にみんなの恋バナを聞いて置けばよかったと、今更ながら後悔した。「っていうか、論点ずれてる。片山さんかマスターか、じゃなくって。そんな簡単にデートしていいものなのかなって……」「いいじゃない、それでもしかしたらドキドキしたりして、恋が芽生えることだってあるよ? きっと」「……ドキドキしたら恋なの? そんな単純?」「わからないからって立ち止まってたらわからないままじゃない? あんまり怖がらないで、案ずるより産むがやすしっていうわよ?」つまりそれは。まずは、デートしてみろってこと、でしょうか。お姉ちゃんに相談しても、結局悩みはすっきりとはしないまま。お風呂を済ませて、お布団に入ってまた頭を悩ませる。一瀬さんから見ると私なんか子供だってそれはよくわかってるけど、片山さんだって私よりも五つ上だ。それに、かっこいい。あんな風に見つめられたり、指にキスされたりしたら……どきどきして当たり前だと思う。肌掛け布団を口許まで引き上げたら、指先が目に入ってまたどきどきがぶり返して、暫く眠れなかった。◇◆◇翌日、朝から片山さんと顔を合わせるのに、すごく緊張したけれど。「おはよ、綾ちゃん」「おはようございます」彼はいつも通り愛想のよい笑顔で、ケーキの番重をカウンターの上に置く。そして、いつものように、目の前に停めた車を駐車場の一番端に停め直しに行く。「……あれ?」間抜けな私は、その時に漸く気が付いた。彼は毎朝、車でケーキの番重を積んで出勤してくる。おうちのケーキ屋さんは歩けない距離じゃないけど、手で持って歩くには遠いし車の方が安定するから。当然、昨日も車だったはずだ。片山さんはあれから、一度店に戻ったのだろうか。「ああ、はい。一度戻って来られてから車で帰られましたよ」一瀬さんにそれとなく聞いてみたら、そう教えてくれた。だったらなんで車で送ってくれなかったんだろう。車なら駅まで三分くらいだし、昨日は降られはし

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   4話 一途なひまわり《4》

    「え……っと」壁と片山さんに挟まれて、片手は繋がれたままで、逃げ場所がどこにもない。顔に集まる熱を感じながら、俯いて視線を逃がしたのは今度は私の方だった。空いた手が手持無沙汰に忙しなく、横髪を耳にかけて肩にかかった鞄の柄を握る。「嫌?」「嫌、っていうか。あの」ふざけてるのか真剣なのか、いつも片山さんはころころと雰囲気を変えるから真に受けていいのかわからない。ぎゅっと握ったままの鞄の柄を、何度も肩にかけ直した。手を握られたままの片手が、汗ばんできているのを感じて恥ずかしい。「……綾ちゃんから見て、やっぱり俺は軽そうに見えるんだ? だから嫌なの?」そう言った声が少し寂しそうに聞こえて、慌てて視線を戻した。「違います、そうじゃなくってっ!」「じゃあいいよね、行こう?」約束ね、と。私の手を持ち上げて口許に寄せる。「ひゃっ……」指先に、あたたかくて柔らかいものが触れて私は慌てて手を引いた。思いのほか簡単に手は抜けた。「あ、あのっ」「うん?」手は離れたけど、すぐ目の前に片山さんの顔があるこの状況には変わりない。ぐるぐると頭が混乱して、涙が出そうで。「も、帰らなきゃ。電車が」目の前もぐるぐるして、キスされた指先も顔も熱くて。片山さんの顔が、もうまともに見れなくて、横を駆け足ですりぬけて。逃げ出して、しまった。「あ、綾ちゃん!」片山さんの声を聞きながら路地を抜け出し、まっすぐ駅の改札まで走る。定期を出すのに手間取って、つい後ろを振り向いたら。「……っ」片山さんが少し後ろの方で、私に向かって手を振っていた。すごく、優しい笑顔で。多分私が走り去った後も、ちゃんと改札抜けるまで見守っててくれたのだと思うと、また胸がどきどきし始める。慌てて前を向いて駅のホームまで駆け上がったけれど。電車に乗ってる間もその鼓動は収まらなくてずっとそわそわしてしいた。さすがに私でもわかる。片山さんは、本気かからかってるのか兎も角として、私に好意を向けてくれている。家のある駅に着いてからも落ち着かなくて、いつもの倍以上のスピードで帰り道を歩いて玄関に飛び込んで。「あ、おかえり。今日は遅かったね」早歩きで帰ったのに遅いと言われて、それだけ片山さんとゆっくり歩いて話をしていたのだと気づいた。「お姉ちゃあん!」「えっ? 何?」ちょう

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   4話 一途なひまわり《3》

    外灯や店の灯りを反射して、色とりどりの光を放つ石畳道を進んで行くとそれほど長くかからずに駅につく。まだ人通りも多い時間で、ほんとに送ってもらうほどのことでもないのだけど。話上手な片山さんに乗せられたというべきだろうか。最初の緊張やら戸惑いやらはいつのまにかなくなって、話に夢中で歩調も緩くなる。「綾ちゃんは映画はあまり見ないの?」「最近はあまり。レンタルしてくることはよくありますけど」「じゃあ遊びに行くならどこ行きたい?」「あ、植物園がこないだリニューアルされてそこに今度行く予定なんですけど」「え、誰と?」「お姉ちゃんとです!」「ふうん……」ずっと笑顔だった片山さんが、少し面白く無さそうな顔をした。「『悠くん』は一緒じゃないんだ?」「えっ、どうかな、聞いてないですけど……」話をしたときは私とお姉ちゃんだけだったけど、いざ行くと悠くんも一緒だったりもよくあることだから、本当にその日になってみないとわからない。片山さんの不機嫌の理由は、わからないことはないけれど。それが、ほんとなのかただからかってるのかがわからない。以前は頼りにできる先輩で、男の人だなんて特に改めて思ったことはなかったけど……こういう会話になると、つい考えてしまう。早く、駅に着かないかな、なんて。「じゃあ、さ」「はい?」突然互いの手が触れあって、片山さんの手は少し、ひんやりとしていた。「デートに行くなら、どこに行きたい?」ああ、まただ。また、逃げ出したくなるような空気が漂って、私は手をひっこめようとしたけれどその指先を捕まえられた。「あ、あの、手……」「どこがいい?」「行ったことないから、わかんないです。それより手……」駅はもうすぐそこなのに、こんな際々でまた片山さんは恋愛モードに入ってしまって、私はまた狼狽させられる。「じゃあ、行先俺が決めていい? 今度の定休日空いてる?」「空いてます……じゃなくてなんで行く流れになってるんですかっ」「あ、流されなかったね……残念」あはは、と片山さんが笑って恋愛モードがまた解ける。ちょっとずつちょっとずつ、小出しにされてる気がするのは気のせいだろうか。少し空気は緩んだけれど、その隙にしっかりと指を絡めて手を繋がれてしまった。たかが、手だ。片山さんの手に一切触れたことがないかと言ったらそんなことはない

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   4話 一途なひまわり《2》

    食器を片付けて厨房を出るまでの間ずっと見られているみたいな気がして、ほんの僅かな時間なのに苦しくなるくらいに居心地が悪い。「綾ちゃん」「えっ」それじゃあ、と声をかけてカウンターに戻ろうとしたら呼び止められてびくびくしながら後ろを振り向いた。「今日、終わったら一緒に帰ろうよ」「えっ、でも。駅と片山さんのおうちと、反対方向じゃ」「いいでしょ、送るよ」「いえ、あの……」狼狽えながらも断り文句を探しているうちに、彼は重ねて言葉をつなぐ。「いいでしょ、俺も綾ちゃんとちゃんと話す時間がほしいだけ」そう言われると、自分が余りにも幼い理由で逃げているだけのように感じてまた、言葉を失った。カウンターに戻った私が、余程憔悴した顔をしていたのだろうか。一瀬さんが少し首を傾げて言った。「どうかしましたか?」「いえっ、大丈夫です! マスター、お食事行ってください!」慌てて笑顔でそう言ったけれど、わざとらしく取り繕ったように見えてしまったのかもしれない。無言で、珈琲を淹れてくれるのを見て、『あ、私の分だ』と、すぐにわかった。案の定、暫くカウンターで立ってグラスを磨いたりしていると作業台にカップを置き「どうぞ」と一言。「……ありがとうございます」一瀬さんの感情の読み取りにくい表情を、最初はすごく怖いと思ったけれど。今は逆に、安心してしまう。厨房へと入っていく背中を目で追いながら、私は珈琲の香りを深く吸い込み唇をつけた。ここで働くまで、珈琲がこんなに美味しいとは思わなかった。どちらかというと少し苦手で、砂糖やミルクを多めにいれて甘くしないと飲めなかったのに、今ならブラックでだって美味しく飲める。それだけじゃない。少しイライラした時や焦った時、落ち込んだ時、一瀬さんが度々淹れてくれる珈琲がなんだか安定剤代わりになっているような気がするくらい。香りを深く吸い込むと、どんなに波立って心も次第に凪いでゆく。そんな風に、感じるようになっていた。「顔はあんなに無表情なのにな」仏頂面で口を真一文字に結んだ怖い顔で淹れているのに。そう思ったら、なんだか少し可笑しくて「ぷぷ」と笑いながら、また一口珈琲を味わった。「それじゃ、お疲れ様です」閉店時刻を迎えて、少しの後片付けを手伝った後はいつもどおり一瀬さんに促されて、鞄を手に取った。一応……無視するわけ

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